bullockbooksのブログ

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『ぼけと利他』伊藤亜紗・村瀬孝生

『ぼけと利他』【新刊】

伊藤亜紗・村瀬孝生:共著

ミシマ社

¥2,640-(税込)

 

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 ミシマ社さんの9月の新刊『ぼけと利他』が入荷しました。

 まだ冒頭しか読んでいませんが、ぶわっといろんなことが浮かんだので、紹介してみようと思います。

 まず著者について。

 伊藤亜紗さんは、東京工業大学科学技術創生研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員。専門は美学、現代アート。著書多数。etc...とあります。

そして、村瀬孝生さんは、1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書多数。とあります。

 どちらも人間を扱うエキスパートといった印象です。

 本書はこのふたりが2020年9月から22年4月の間に交わした書簡(「みんなのミシマガジン」での連載)に加筆・修正したものです。

 伊藤亜紗さんの「はじめに」では、この本のタイトルが『ぼけと利他』であることについてふれられています。

 

「ありがとうと口では言いながらどこか迷惑そうだったり、(略)迷惑をかけたときのほうが喜ばれたり.....。「誰かのため」は、一筋縄ではいきません。

(略)

 本書のタイトルにある「利他」とは、この不思議に満ちた「自分のしたことが相手のためになる」という出来事を指し示す言葉です。

(略)

 利他について研究するにあたって、私がまっさきに協力を請うたのが、福岡にある「宅老所よりあい」代表の村瀬孝生さんでした。

(略)

 まず「ぼけ」は、利他を考えるうえでの重要なヒントを与えてくれるのではないか、と思いました。

 なぜなら、ぼけのあるお年寄りとのやりとりには、ズレがつきまとうからです。ぼけのあるお年寄りは、そうでない人とは異なる時間感覚、空間感覚の中に生きています。

(略)「わかったつもり」にすらたどり着けない場面が増えることになる。

 そこに生まれる葛藤や手探りに、むしろ利他を考えるヒントがあるのではないか、と思いました。

(略)

 利他を生む行為も、自分の利益が最大化するように賢く計画的に振る舞う態度とは真逆だ、という意味では、本質的にどこかとぼけたものなのかもしれません。ぼけを通じて利他を、利他を通じてぼけを、考える。」

 

 さらには村瀬さんの言葉を借りて、「ぼけ」についてはこう書いています。

 

「一般には「認知症」と呼ばれることが多い現象ですが、加齢とともに現れる自然な変化であるかぎり、病気ではない、と村瀬さんは言います。(略)そこで本書では、「病気ではない、正常なこと」というニュアンスを込めて、「認知症」ではなく「ぼけ」という言葉をつかっています。」

 

 こうして往復書簡へと章は移っていきます。一通目は村瀬さんからで「答えを手放す」と始まります。以前にふたりが対談中に、伊藤さんから発せられた問いについてあらためて別の角度から答え直すような内容です。

 これに対する伊藤さんの返信は「アナーキーな相互補助」です。「答えを手放す」という言葉に、ブレイディみかこの著書をあげ、「ケアって本質的にアナーキーなことなんでしょうね。」と発想していきます。

 こうして書簡のタイトルを追うだけでも、次が「ズレまくりながら調和している」「オオカミの進化」「ヤドリギと鳥」「温泉と毛」と、話の飛躍のしかたにドキドキしてきます。

 「温泉と毛」では、私の飼い犬のことを思いました。

 14歳で亡くなった大型の雄犬で、犬白(いぬしろ)といいました。伊藤さんが毛は手がかかるけど、手は毛をもとめる(思わず触れたくなってしまう)というようなことを書いてましたが、私も犬白の柔らかな芝生のような額に指を埋めるのが大好きでした。

 最期は立てなくなり、それでも、寝たままでも排泄できるように体をならして頑張ってくれました。(頑張って「くれた」と思うことがもう、ケアしているこちらが犬白から励まされているわけですが)大きな体を横たえて一日中ぼんやりと薄目を開けていた最期の数日は、村瀬さんの一通目「答えを手放す」の内容と重なりました。「これで良いのか」に答えはありませんが、汚れた体を洗って、熱くないようにドライヤーを遠ざけながら薄くなった毛を乾かしているときに見た、犬白の力の抜けた表情は100%「気持ちいい〜」だったと確信しています。

 

 伊藤さんの8通目「内なるラジオ」の最後に細馬宏通さんの「詩の練習」というポッドキャストのお話が出てきました。

 細馬さんには以前ちらっとだけお会いしたことがあり、著作も気になっていたところだったのですぐにそのポッドキャストを検索して聴き始めました。すごく面白いので今ハマっています。

 伊藤さんがあげていたのは#12でしたが、私は#8「「二人でお茶を」とブローディガンの「芝生の復讐」(藤本和子訳/新潮文庫)。母親の焼くケーキ。繰り返し同じ未来を想像する者と、繰り返し同じ過去に遡る者。」の回について。これもまた私の飼い犬のことを思いました。

 犬白にはピッピという兄弟がいます。雌犬で今年の10月で17歳の長寿犬です。これが先日ふっと家を出て、一晩、行方不明になりました。いつも夕方4時ごろになると、ご飯の時間が近づいたのがわかりテンションがあがってくるのですが、その日はそのテンションがいつも以上に高かったのか、最近は足が弱って登れなかった坂道を登っていったようで、翌日2キロ離れた山の麓の田んぼの側溝に落ちているところを近所の人が見つけてくれました。連れ帰り、お風呂に入れ、今はすっかり回復しています。

 「4時10分になったらご飯の支度をするからね」と声をかけたのが最後(この時4時3分)、そこから一晩、私(多分家族も)の時間はこの「ご飯の支度をするからね」を何度も繰り返していました。幸い一晩で見つかりましたので、こうしてお話することができています。

 ピッピにとってはどんな時間だったんだろうとよく考えます。発見された田んぼのあたりは、10年ほど前、ピッピと犬白とその母親のブルーと父親の近所のちびと、お隣さんちのライの5匹連れで走り回っていた場所でした。

 すっかりぼけた毎日を送っているピッピの頭が、テンションの上がった勢いで歩き続けた結果、懐かしい田んぼに来た途端、若かった頃を思い出したんでしょうか。いなくなった日の夜に近所の人たちに連絡をしたところ、一人の方がピッピに似た犬がいたと報告してくれたんですが、(この方が翌日の朝も探してくれたお陰で、無事見つかりました)見かけた時に、「田んぼの中で飛び跳ねて遊んでた」と言ったんです。

 年をとって後ろ足が思うように動かず、ほとんど前足を頼りに動いていたので、「飛び跳ねて」いたとは考えられず、違う犬かもね、と最初は思ったほどです。

 ですが、失踪から10日ほどが経ち、もしかしたらピッピの時間はいま、本当に田んぼで遊び回っていた5,6歳の頃に戻っているのかもと思っています。以前より元気なのです。後ろ足もしっかりして、眼の輝きも増し、最近しなくなっていた猫たちをどやす(飛びかかって脅かすともいいます)ことも復活しています。ショック療法みたいなものでしょうか。真っ暗な森に囲まれた田んぼでの一晩は、細胞が活性化するほどに刺激的だったのだと思います。(結果的に良かったというだけで、もうこんなことは起きてほしくないですが)

 「詩の練習」の#8とどう関係するのか、まだ話してませんでした。

 タイトルにあるブローディガンの小説『芝生の復讐』の話です。あるお祖父さんがいるのですが、亡くなるまでの17年間、病院の中で、自分はいま6歳で、母親がチョコレートケーキを焼いてくれている、それを自分は待っているという時間の中に生き続けたという、そんな話でした。ピッピの失踪後に聴いたので、「あ、これだな」と思ったのでした。

 「はじめに」にあった、

「ぼけのあるお年寄りは、そうでない人とは異なる時間感覚、空間感覚の中に生きています。 」

にも通じるなあと思います。

 

 以上のようなことを冒頭を読んでいて思いました。まだまだ続きが気になっていますし、繰り返して読むたびに新たな気づきがありそうな本です。

 多分どんな人の生活にもどこかにぼけが、ひょっこり顔をだしていると思います。

時に切実ですが、他では経験できない喜びや笑いももたらしている気がします。そうであってほしいなと思います。

 

 本書に出てくる、湯呑みをもつと受話器に変換されて「モシモシ、モシモシ」といってしまうお婆ちゃんにちなんで、熱々の緑茶を湯呑みで飲みながら、どうぞ。