bullockbooksのブログ

bullockは栃木県矢板市にある古書と新刊の小さな店です。ここでは店主のおすすめをピックアップして、個人的な感想をまじえながら紹介しています。紹介した本はオンラインストアからも購入できます。https://bullock-books.stores.jp

『ぼけと利他』伊藤亜紗・村瀬孝生

『ぼけと利他』【新刊】

伊藤亜紗・村瀬孝生:共著

ミシマ社

¥2,640-(税込)

 

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 ミシマ社さんの9月の新刊『ぼけと利他』が入荷しました。

 まだ冒頭しか読んでいませんが、ぶわっといろんなことが浮かんだので、紹介してみようと思います。

 まず著者について。

 伊藤亜紗さんは、東京工業大学科学技術創生研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員。専門は美学、現代アート。著書多数。etc...とあります。

そして、村瀬孝生さんは、1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書多数。とあります。

 どちらも人間を扱うエキスパートといった印象です。

 本書はこのふたりが2020年9月から22年4月の間に交わした書簡(「みんなのミシマガジン」での連載)に加筆・修正したものです。

 伊藤亜紗さんの「はじめに」では、この本のタイトルが『ぼけと利他』であることについてふれられています。

 

「ありがとうと口では言いながらどこか迷惑そうだったり、(略)迷惑をかけたときのほうが喜ばれたり.....。「誰かのため」は、一筋縄ではいきません。

(略)

 本書のタイトルにある「利他」とは、この不思議に満ちた「自分のしたことが相手のためになる」という出来事を指し示す言葉です。

(略)

 利他について研究するにあたって、私がまっさきに協力を請うたのが、福岡にある「宅老所よりあい」代表の村瀬孝生さんでした。

(略)

 まず「ぼけ」は、利他を考えるうえでの重要なヒントを与えてくれるのではないか、と思いました。

 なぜなら、ぼけのあるお年寄りとのやりとりには、ズレがつきまとうからです。ぼけのあるお年寄りは、そうでない人とは異なる時間感覚、空間感覚の中に生きています。

(略)「わかったつもり」にすらたどり着けない場面が増えることになる。

 そこに生まれる葛藤や手探りに、むしろ利他を考えるヒントがあるのではないか、と思いました。

(略)

 利他を生む行為も、自分の利益が最大化するように賢く計画的に振る舞う態度とは真逆だ、という意味では、本質的にどこかとぼけたものなのかもしれません。ぼけを通じて利他を、利他を通じてぼけを、考える。」

 

 さらには村瀬さんの言葉を借りて、「ぼけ」についてはこう書いています。

 

「一般には「認知症」と呼ばれることが多い現象ですが、加齢とともに現れる自然な変化であるかぎり、病気ではない、と村瀬さんは言います。(略)そこで本書では、「病気ではない、正常なこと」というニュアンスを込めて、「認知症」ではなく「ぼけ」という言葉をつかっています。」

 

 こうして往復書簡へと章は移っていきます。一通目は村瀬さんからで「答えを手放す」と始まります。以前にふたりが対談中に、伊藤さんから発せられた問いについてあらためて別の角度から答え直すような内容です。

 これに対する伊藤さんの返信は「アナーキーな相互補助」です。「答えを手放す」という言葉に、ブレイディみかこの著書をあげ、「ケアって本質的にアナーキーなことなんでしょうね。」と発想していきます。

 こうして書簡のタイトルを追うだけでも、次が「ズレまくりながら調和している」「オオカミの進化」「ヤドリギと鳥」「温泉と毛」と、話の飛躍のしかたにドキドキしてきます。

 「温泉と毛」では、私の飼い犬のことを思いました。

 14歳で亡くなった大型の雄犬で、犬白(いぬしろ)といいました。伊藤さんが毛は手がかかるけど、手は毛をもとめる(思わず触れたくなってしまう)というようなことを書いてましたが、私も犬白の柔らかな芝生のような額に指を埋めるのが大好きでした。

 最期は立てなくなり、それでも、寝たままでも排泄できるように体をならして頑張ってくれました。(頑張って「くれた」と思うことがもう、ケアしているこちらが犬白から励まされているわけですが)大きな体を横たえて一日中ぼんやりと薄目を開けていた最期の数日は、村瀬さんの一通目「答えを手放す」の内容と重なりました。「これで良いのか」に答えはありませんが、汚れた体を洗って、熱くないようにドライヤーを遠ざけながら薄くなった毛を乾かしているときに見た、犬白の力の抜けた表情は100%「気持ちいい〜」だったと確信しています。

 

 伊藤さんの8通目「内なるラジオ」の最後に細馬宏通さんの「詩の練習」というポッドキャストのお話が出てきました。

 細馬さんには以前ちらっとだけお会いしたことがあり、著作も気になっていたところだったのですぐにそのポッドキャストを検索して聴き始めました。すごく面白いので今ハマっています。

 伊藤さんがあげていたのは#12でしたが、私は#8「「二人でお茶を」とブローディガンの「芝生の復讐」(藤本和子訳/新潮文庫)。母親の焼くケーキ。繰り返し同じ未来を想像する者と、繰り返し同じ過去に遡る者。」の回について。これもまた私の飼い犬のことを思いました。

 犬白にはピッピという兄弟がいます。雌犬で今年の10月で17歳の長寿犬です。これが先日ふっと家を出て、一晩、行方不明になりました。いつも夕方4時ごろになると、ご飯の時間が近づいたのがわかりテンションがあがってくるのですが、その日はそのテンションがいつも以上に高かったのか、最近は足が弱って登れなかった坂道を登っていったようで、翌日2キロ離れた山の麓の田んぼの側溝に落ちているところを近所の人が見つけてくれました。連れ帰り、お風呂に入れ、今はすっかり回復しています。

 「4時10分になったらご飯の支度をするからね」と声をかけたのが最後(この時4時3分)、そこから一晩、私(多分家族も)の時間はこの「ご飯の支度をするからね」を何度も繰り返していました。幸い一晩で見つかりましたので、こうしてお話することができています。

 ピッピにとってはどんな時間だったんだろうとよく考えます。発見された田んぼのあたりは、10年ほど前、ピッピと犬白とその母親のブルーと父親の近所のちびと、お隣さんちのライの5匹連れで走り回っていた場所でした。

 すっかりぼけた毎日を送っているピッピの頭が、テンションの上がった勢いで歩き続けた結果、懐かしい田んぼに来た途端、若かった頃を思い出したんでしょうか。いなくなった日の夜に近所の人たちに連絡をしたところ、一人の方がピッピに似た犬がいたと報告してくれたんですが、(この方が翌日の朝も探してくれたお陰で、無事見つかりました)見かけた時に、「田んぼの中で飛び跳ねて遊んでた」と言ったんです。

 年をとって後ろ足が思うように動かず、ほとんど前足を頼りに動いていたので、「飛び跳ねて」いたとは考えられず、違う犬かもね、と最初は思ったほどです。

 ですが、失踪から10日ほどが経ち、もしかしたらピッピの時間はいま、本当に田んぼで遊び回っていた5,6歳の頃に戻っているのかもと思っています。以前より元気なのです。後ろ足もしっかりして、眼の輝きも増し、最近しなくなっていた猫たちをどやす(飛びかかって脅かすともいいます)ことも復活しています。ショック療法みたいなものでしょうか。真っ暗な森に囲まれた田んぼでの一晩は、細胞が活性化するほどに刺激的だったのだと思います。(結果的に良かったというだけで、もうこんなことは起きてほしくないですが)

 「詩の練習」の#8とどう関係するのか、まだ話してませんでした。

 タイトルにあるブローディガンの小説『芝生の復讐』の話です。あるお祖父さんがいるのですが、亡くなるまでの17年間、病院の中で、自分はいま6歳で、母親がチョコレートケーキを焼いてくれている、それを自分は待っているという時間の中に生き続けたという、そんな話でした。ピッピの失踪後に聴いたので、「あ、これだな」と思ったのでした。

 「はじめに」にあった、

「ぼけのあるお年寄りは、そうでない人とは異なる時間感覚、空間感覚の中に生きています。 」

にも通じるなあと思います。

 

 以上のようなことを冒頭を読んでいて思いました。まだまだ続きが気になっていますし、繰り返して読むたびに新たな気づきがありそうな本です。

 多分どんな人の生活にもどこかにぼけが、ひょっこり顔をだしていると思います。

時に切実ですが、他では経験できない喜びや笑いももたらしている気がします。そうであってほしいなと思います。

 

 本書に出てくる、湯呑みをもつと受話器に変換されて「モシモシ、モシモシ」といってしまうお婆ちゃんにちなんで、熱々の緑茶を湯呑みで飲みながら、どうぞ。

『時間都市』/J.G.バラード

『時間都市』【古書】

J.G.バラード:著/宇野利泰:訳/

東京創元社/文庫版

¥700-(税込)

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 またもJ.G.バラードですが、今回は短編集です。

1962年にアメリカで出された『BILLENIUM』(「至福一兆」)の翻訳です。

日本版は「Chronopolis」からとって『時間都市』となってます。

『時の声』に次ぐ2冊目の短編集です。

10個の短編が収録されています。

 

・至福一兆

 人口過多により、一人当たりの居住スペースが4平方メートルと規定されている、凄まじい事情下で暮らす世界。アパートの壁の穴から、忘れ去られていた古い部屋を見つけた主人公は.......。

 「まあ、そうなるよな」といったベタな展開ですが、絶妙な文章が面白いです。

 この短編集の多くに共通する、過剰で重層的(バラードはよくバロック的なといった表現を使いますが、)な思考実験を最もシンプルに描いた、導入にふさわしい作品でした。

 

 どの作品にもいえて(全作品読んだわけではないですが)、私がバラードを好きな理由でもありますが、滅入るテーマも、ややこしい心理学的な作品もシュルレアリスティックなテーマも、暴力をテーマにした後期の作品も、著者の平静で純粋な実験精神によって書かれていて、作品と著者の間にいい距離感があります。同時代の作家フィリップ・K・ディックと比べるとバラードの軽やかさが際立ちます。(PKDも好きです)

 純粋に思考を楽しんでいるというような。ある意味もっとも科学的なんじゃないでしょうか。深刻になりすぎないところも読んでいて心地いいです。

(↓この写真も大好き。作品と著者との心地よい距離感がここにも現れてませんか)

 

『人生の奇跡 J.G.バラード自伝』(東京創元社)より



・狂気の人たち

 「世界統合政府の手で制定された精神自由法」により、精神療法が禁じられた世界。

 

「地球上は精神病院にかわりつつある。社会の半分は、あとの半分の者の苦悩をあざわらっているのだが、その大多数は、自分がどちらの部類に属しているのか、知ることもできないらしい。」

 

 ラストはもう笑うしかない。(でも自分はどちら側かな?)

 

・アトリエ五号、星地区

 架空の砂漠リゾート地、ヴァーミリオン・サンズを舞台にした作品。

バラードのデビュー作でもある「プリマ・ベラドンナ」もこのシリーズです。

もっともファンが多いのもこのシリーズみたいです。多くの派生小説やビジュアルを生みました。わたしも大好きです。

 どことなく、50年代のハリウッド映画「サンセット大通り」や「去年の夏 突然に」を彷彿とさせます。

 

ヴァーミリオン・サンズはわたしが喜んで住んでみたい場所といえる。むかし、わたしはこの明るすぎる砂漠のリゾートを、わたしの心のエキゾティックな郊外と呼んだことがある。

(略)ヴァーミリオン・サンズはどこにあるのか?おそらくその精神的な故郷はアリゾナとイパネマ・ビーチの中間のどこかにあるのだと思うが、うれしいことに、最近ではよそにもそれが出現しはじめたようだ(略)毎夏、全ヨーロッパがそこに寝そべって、背中を日に焼くのである。この姿勢は、いうまでもなくヴァーミリオン・サンズの特質であり、そして、未来の特質でもあってほしいと思う。それはたんにだれも働く必要がないということではなく、仕事が究極の遊びであり、遊びが究極の仕事だということである。」

(『ヴァーミリオン・サンズJ.G.バラード/浅倉久志訳(早川書房)序文より)

 

 心のエスケープに訪れたいヴァーミリオン・サンズ。はやく現実が追いついてほしい!

 

・静かな暗殺者

 タイムトラベルもの。『ラ・ジュテ』的な。

 自分の恋人が巻き込まれた爆破事件を未然に防ごうと、過去のロンドンにやってきた男の迎えた結末は...。

 全然関係ないのかもしれませんが、コニー・ウィリスオクスフォード大学史学部のタイムトラベルシリーズと『マーブルアーチの風』(まだ読んでないけど)ができたのもこれがきっかけなのでは?と妄想しきりでした。そういうこと考えている時間が一番楽しい。

 

・大建設       

 

 「場所は百万丁目、正午時の会話──」

 という、素敵な書き出し。

 

 無限大に続く建設空間。隙間のない都市で、主人公はある日見た夢から、飛行機械を作ることを思いつきます。そしてそれを飛ばす広大な自由空間がどこかにあるはずだと探し回り、「超特急」というなにやらどこまでも行きそうな列車に乗り込みます。

 生物史博物館で飼育されている鳥たちは翼が退化して久しく、見渡す限りの空間はすべて建造物で埋め尽くされいて、もしかして空と呼べるものがもうないのかもしれません。

 弐瓶勉の『BLAME!』、大好きなのですが、あの世界観にはこの短編が影響していてほしいなあと妄想を通り越して願望してます。『BLAME!』の霧亥が一巻で手にした本を読んで言う「大地ってなんだ?」が『大建設』の、翼で飛ぶ鳥を知らない主人公たちと重なります。(でも、この時持っている本はティプトリー・ジュニアなのでしょうけど)

 

「「博士はいつごろのことと考えているんだ?この連中が飛びまわっていた時代を」

「建設期以前とみている」フランツが答えた。「三億年も昔のことだ」」

 

 あまり多くは語られない都市の構造や、膨大なスケール感は、語られないからこそ想像を掻き立てます。(とはいえ、もうちょっと都市の部分、読みたかった....)

 

・最後の秒読み

 ノートに書いた通りに人が死ぬことに気づいた男。オチが秀逸で、短編らしい魅力があります。

 

・モビル 

 冒頭で思わせぶりに[mobile]についての紹介などをしておきながら、作中ひと言も出てこなかった(多分。2回読み返しましたけどなかったと思う)、とぼけた感じのブラックコメディ。脳内ではタイガー立石の漫画仕立て。

 

・時間都市

 他のバラード作品での時間の扱い方と違って、よりストレートな時間の話でした。かつて人口が集中しすぎたロンドンが行った、職業別に時間を割り振った行動規制が限界を迎え、時計の存在を抹消した世界。時間を測ることから解放されてみたいと私も時々思います。

 

・プリマ・ベラドンナ

 1956年に発表されたバラードの処女作。こちらも〈ヴァーミリオン・サンズ〉シリーズのひとつ。砂漠のリゾート、近代的な建築、美女、怪事件がお決まりのスタイルですが、最初の作品だからか、登場する美女の描写が他より丁寧です。

 音響植物の中でも気難しいアラクニッド蘭をめぐる物語。あるいは蘭殺しをめぐる物語かも。

 

・時間の庭

 この短編集の中でもっとも美しくてシュルレアリスティックな作品です。『結晶世界』の回でもいいましたが、時間の枯渇に抗う男女の物語。夢の中で感じる強迫観念みたいで、こういう感覚を文章にできるなんてすごいなと感動します。

 

 ということで、全10編を振り返って好き勝手な感想を書きました。そろそろバラードは一旦お休みして他の本を読もうかと思います。

 

 夏を惜しんでコカコーラと一緒にどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

『氷』『アサイラム・ピース』/アンナ・カヴァン

『氷』【古書】

アンナ・カヴァン:著/山田和子:訳/

筑摩書房/2015年3刷/文庫版

¥450-(税込)

 

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  前回はバラードの『結晶世界』でしたが、あの本を読んでいるとまっさきに思い出すのがこちら。アンナ・カヴァン『氷』です。

 序文をSF作家のクリストファー・プリーストが書いているのですが、そこではバラードもカヴァンも”スリップ・ストリーム”というカテゴリーに入れられています。

その辺りの話はぜひプリーストの序文で。

 

 氷がすべてを飲み込み、世界が終わりをむかえていく破滅の物語。

SF的な論理的整合性はなく、むしろ観念的な物語のように見えます。

 

 主人公は”私”としかでてこないですが、男で、諜報部員のような仕事をしているようです。かつて夢中になった少女をもとめて、少女とその夫が住む館に向かいます。真夜中の道をヘッドライトの灯りを頼りに突き進むと、突然の雪景色の中に銀白の髪の少女が現れます。

 

 このあたりから物語は無重力の異次元空間に迷い込んだように、唐突な切り替わりを繰り返して、少女と二人の男の追走劇を繰り広げます。

 夫のもとを離れ行方をくらました少女を追って海を渡った”私”は、寂れた小国で長官と呼ばれる男と共にいる少女を見つけます。

 二人は《高い館》におり、そこへ向かうところはカフカの『城』を思わせます。

 

(※これは、未読の方は知らずに読んだ方がいいと思います!!でもいいたい。。。)

 氷の嵐を逃れ、寂れた小国から船で脱出するシーンがありますが、船に乗った”私”が港を振り向くと、そこが陽光あふれる近代的な都市になり、活気に輝いているのが見えます。”私”はその光景にショックをうけますが、あまりのことに読んでいる私もショックでした。ものすごく鮮やかなシーンで、胸がつまります.....

 

「これこそが現実であり、他の出来事のほうが夢なのかもしれないと思い至った時の、体が揺さぶられるような覚醒感。突如、これまでの日々が非現実なものとしか思えなくなった。」

 

 追っても追ってもすりぬけてゆく少女と、どこにいても迫ってくる氷の壁。この不毛さは自分のいるところにだけ在る、自分がいるから在るという絶望感。涙が出そうです。

 

 『氷』はアンナ・カヴァンの最後の小説です。この小説を出版した翌年の1968年にロンドンの自宅で亡くなっているのが発見されました。死因は心臓発作ということです。

 2度目の離婚をし、WW2で一人息子を失ってから一度ならず自殺を試み、精神病院にも2度入っています。また、脊椎の病のためにヘロインを常用するようになります。

 真っ白い雪の描写などは彼女のヘロイン使用の体験が投影されているのではと、推察されてもいます。たしかにそんなふうに読むこともできます。彼女の体験がもとになっているのなら、どれほどの寂寥感のなかで日々を生きていたのかと考えてしまいます。

 ですが同時に、カヴァンは非常にアクティブで、ビルマ、オーストラリア、アメリカ、南アフリカなど世界中を旅して周り、室内装飾家、ブルドックのブリーダーなど、さまざまな職業もこなしています。

 冷酷な両親に育てられ、情緒不安定な幼少期を過ごしたようです。バイオグラフィを見ると『氷』はそのまま自身の映し絵だったのかなと思われてきます。とても聡明で活動的な女性像と、神経の細い少女像が二重写になっているようです。

 

「少女は強烈な寒さに耐えられず、ずっと震え続けて、ベネチアンガラスのように砕けていった。その崩壊の過程を実際に見て取ることができた。少女は次第に痩せ細り、さらに白く、さらに透明に、亡霊のようになっていた。この変容はなんとも興味深いものだった。少女は完全にエッセンスだけの存在となり、動くことすらなくなった。」

 

 前触れなく切り替わる場面や、誰のものか不明な視点が行き当たりばったりに書かれているように見えて、どの文章も破綻がなくとても理知的です。明晰な意識のままずっと狂おしい孤独感のなかにいたカヴァンを想像して、悲しくなります。

 破滅的な物語なんですが、どこまでも透明で不思議と暗さや病的なものを感じないのもカヴァン作品の特徴かなと思います。

 

 アンナ・カヴァンを日本に紹介してくれた、訳者山田和子のあとがきも必読ですが、さらに、川上弘美による解説もついていて嬉しい一冊です。

 

 寒い冬にはホットココアとどうぞ。

暑い夏に読むのもおすすめです。カルピスソーダみたいな、甘くて優しい飲み物とどうぞ。

 

 カヴァンがアンナ・カヴァン名義になって最初に刊行された1940年の短編集『アサイラム・ピース』もあります。

 メンタル・ブレークダウンに陥り、スイスのサナトリウムでひと夏を過ごした後に、それまでのファーガソン名義からアンナ・カヴァンとして全く異なるものを書き始めた最初の作品です。『氷』に結集されていく壮絶な孤独感はここでも全編にきらめいています。

  個人的には「母斑」と「変容する家」が激推しです。奇妙さ不気味さと静けさみたいなものが合わさって、特に「母斑」の唐突な展開が素敵です。「変容する家」はコルタサルの「奪われた屋敷」(1951年刊行の短編集に収録なので、カヴァンの作品の方が先なのかもしれませんが)のようであり、また、SFとしても読める感じでもあります。

 アンナ・カヴァンは一定の読者にとっては、時代と関係なく響くものがある作家だと思います。いつになっても古びるということはない、宝石みたいな作家ですね。

 

アサイラム・ピース』【古書】

アンナ・カヴァン:著/山田和子:訳/

国書刊行会/2013年初版/文庫版

¥1,150-(税込)

 

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『結晶世界』/J.G.バラード

『結晶世界』【古書】

J.G.バラード:著/中村保男:訳/

東京創元社/2010年34刷/文庫版

¥550-(税込)

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 前回に続いてJ.G.バラードの小説を紹介します。

 

「日中は、奇怪な形になった鳥が石化した森の中を飛びかい、結晶化した河のほとりには、宝石をちりばめたような鰐が山椒魚の紋章のようにきらめいた。夜になると、光り輝く人間が木立のあいだを走りまわり、その腕は金色の車のよう、頭は妖怪めいた冠のようだった。......」

 

 冒頭に置かれた作中からの引用文が、もういきなりバラードワールド(バラードランドと呼ばれる独特の世界観)に引き込みます。

 舞台の始まりはアフリカの河口港に主人公サンダーズが乗った船が着くところ。

まだ朝の10時だというのに異様に暗く、川面の水は黒い。桟橋にはフランス軍の舟艇がいるだけなのに、サンダーズを乗せた旅客船は河口で2時間も待たされる。すでになにやら不穏な雰囲気。

 一緒に乗って来た客の中には、自分の教区に戻る孤独癖のあるバルザス神父、スーツケースに銃を忍ばせた白服のベントレス(白い服ときくともう、『沈んだ世界』のストラングマンを思い出して警戒しちゃいますよね)が乗り合わせています。彼らもこの物語の重要な一部です。

 船を待たせて厳しい検閲をしている理由は曖昧で、どうも森で新しい植物の病気がみつかったらしいとのこと。

 ようやく下船して着いた町の中も人気がなく、ひっそりとしています。ホテル・ヨーロッパのフロントで的を得ない会話を交わしていたサンダーズは、スザンヌ・クレアにそっくりな若いフランス女性ルイーズを見かけます。サンダーズがこの地に来た理由、彼はモント・ロイアルの森の中にある病院に夫とふたりで移ったスザンヌを追いかけて来たのでした。サンダーズは癩病院の医師です。ルイーズはフランスのジャーナリストで、モント・ロイアルに取材に向かったカメラマンの帰りを待っているのでした。

 ふたりのカフェでの会話の中に、今日が春分であることが出て来ます。

 第1章の章題は「春分」。物語の前半を象徴するものとして明と暗の対立がありそうです。

 

「夜と昼といえば、暗さと明るさという区別はここマタール港のいたるところで自分につきまとっているようだ。ベントレスの白服とバルザス神父の黒い僧服という対比のうちにも、ひっこんだところが暗い影になっているあの真白なアーケードにも、さらに、心の中にあるスザンヌ・クレアの面影にさえも、明暗が対立している。スザンヌの明にたいして、この若いルイーズは暗を成していて、あけすけな目つきでテーブルごしに自分を見つめているのだ。」

 

 ルイーズが言います。「いまじゃ、黒白どっちつかずの灰色のものも、おぼろにかすんでいるものも、まったくないんです」

 物語の骨格が見えてくる印象的な会話ですが、個人的には「ひっこんだところが暗い影になっているあの真白なアーケード」が建つ港町の風景が、デ・キリコの絵画みたいで好きです。

(第2章の「白いホテル」はデルヴォーっぽいなと思ってます)

  翌日、河口に死体があがります。その死体の右腕は半透明の水晶体になっていました。

 

 不穏な導入から役者の揃い方(まだこれで半分ちょいくらいなんですが)まで、精巧な幾何学模様のようにすべてがきれいに配置されています。

 様々に入り交じりながらも溶け合わない万華鏡の中の宝石たちが、かちりと音を立てて展開していくように、多様な人物相関図がどんどん拡がります。

 訳者の中村保男はあとがきで「この作品を一語で称せと言われたら、わたしは一種の「デカダンス小説」と呼びたい。」といっています。

「健康な凡人」(中村氏が書いてるんですよ)から見たら狂気の沙汰としか思えない、メロドラマとデカダンスが後半にかけて緻密に描かれていきます。

 それぞれの妄執を抱いて彼らはモント・ロイアルの森を目指します。

 

 マタール河を船で遡行するサンダーズたちは、上流で軍隊に合流します。

そこでラデック大尉から、モント・ロイアルの状況を(なんだか文学的に)きかされます。

 町を囲む森を中心に結晶化がすすみ、樹や草花だけでなく、鳥や鰐、無機物も川の水さえも光り輝く鉱物となり、森は氷(氷も定義的には鉱物らしいです!)の冷気に凍えています。

 

「つまり、あらゆる物質の根元をなしている、原子よりもこまかな本体が実際に増殖したもの、と考えているわけです。同一物体の、ずれてはいるがどれも似たような映像が、いくつも連続して、プリズムをとおして屈折によって生じているらしいんです。もっとも、その場合、時間の要素が光の役割の代用を果たしているようなんですがね」」

 

 イメージできるようなできないようなもどかしいところです。セリフの冒頭は結晶化をハッブル現象に例えてもいるんですが、もうその先を考えるのはやめました。

 私の頭に浮かんだのはマルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体、No2」でした。

が、「無意識の到来──シュールレアリスム」の中でバラードが生理学者E.J.マーレイの多重露出写真(学術的な目的で撮られた写真ですが、十分詩的で美しく見えます)のことを書いてましたので、こちらがアイデアソースになっているのかなと思いました。わかりませんけど。

 

「たとえば、生理学者E.J.マーレイのクロノグラム、これは多重露出写真で、『連続する砂丘状の塊として表現された、一人の人間の移動する姿』のように、時間の次元が知覚しうるものとして提示されている。」(『ユリイカ 特集J.G.バラード 終末の感覚』)

 

 第二章「光り輝く人間」は、サンダーズが癩病院の院長に書き送った手紙からはじまります。ここがこの小説のSF要素を凝縮した部分になっていて、モント・ロイアルにたどり着いて2ヶ月を経たサンダーズによる、世界が結晶化していく事象の科学的な説明が記されています。

 

「この異常な変化現象を惹き起こしている張本人は、時間なのです。(略)宇宙内に反物質があることが最近発見されましたが、反物質というからには、必然的に、この陰電荷の時空連続体の第四面としての反時間という概念がそこに含まれることになります。(略)宇宙内に反銀河系が誕生したことによって生じたこの類の乱れた流出こそ、われわれ自身の太陽系の物質が利用できる時間ストックの涸渇をもたらしたものなのです。」

 

 長い手紙の一部を抜粋しても何も伝わらないかもしれませんので,是非本文を読んでみてほしいです。私は何度も読み返しているのですが、わかるような...わからないような...。かすかに私のゴーストが「TENET.....?」とささやくのが聴こえます.....。

 もうすっかりこの結晶化の運命を受け入れている2か月後のサンダーズの精神が、この物語の結晶の核なのかもしれません。そう感じるほど、小説のちょうど真ん中あたりにこの手紙が位置しています。(もう、全部、完璧だなって思います。この小説)

 あと「時間が涸渇する」というイメージは、同時期の短編「時間の庭」でもよりシンプルな形で描かれています。勝手に脳内ショートフィルムが上映されてしまうヴィジョナリーな一編ですので、こちらも是非。

 「時間」はバラード初期の作品ではさまざまに取り扱われているので、これから注目して読んでみたいと思ってます。

 

 暑い夏の昼下がりにディアボロマントと一緒にどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

『沈んだ世界』 /J.G.バラード

はじめまして。

栃木県矢板市で古本と新刊の本屋bullockを営んでおります。

ここでは、主にオンラインストアに掲載した書籍の中から店主がピックアップした本について個人的な感想を交えながら紹介していこうと思います。

読んだ感想がメインなので、ネタバレに近くなることもあるかもしれません。

 

『沈んだ世界』【古書】

J.G.バラード:著/峰岸久:訳/

東京創元社/2007年24刷/文庫版

¥880-(税込)

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1960年代のSF界に「あたらしい波」をもたらした作家のひとりであるJ.G.バラード

外宇宙ではなく、内宇宙(インナースペース)つまり人間精神の内部空間こそ探求すべき領域であるとし、従来のSFとは異なる作品を書き続けました。

本書は1962年に書かれたバラードの長編2作目にあたります。ちょっとあらすじをご紹介します。

 

「六、七十年前にその最初の衝撃が現れた。突然発生した太陽の不安定さが原因となって、一連の激しい長期的な太陽のあらしが何年も続き、それがバンアレン帯を拡大させて、電離層の外層に対する地球の索引力を減退させた。(略)気温がじりじりと上がりはじめ、熱せられた大気は、外へ広がって行って、電離層にまで達し、そこで循環が完成した。」

 

1962年の作品だから、ちょうど今年が小説の中で語られている60年後の世界と重なります。そう思うと現実がSFに追いついてる感じでこわいですね。

 

 長期にわたる気温の上昇によって地球上の地形は大きく変わり、世界中の都市は泥と水の中に沈んだ世界。主人公は年平均気温が85度(華氏。摂氏で29.4度)となった北極圏生まれの生物学者ケランズ。

 リッグス大佐率いるイギリスの調査隊の一員として水没した都市を巡り、かつての大都市ロンドンに調査のため滞在しているところから物語がはじまります。

 沼から突き出したホテルリッツの、最上階のエアコンと断熱カーテンに守られた一室で仮暮らしをするケランズ。そして、財界人だった祖父が遺したアパート(小さなプールと屋根のある中庭付き)に立退き(というか軍の保護)を拒否して悠然と暮らす美女ビアトリスの存在。

密閉された建物の外では灼熱の太陽が輝き、水没したビルは苔むし、巨大化したシダ類が生い茂り、黒い沼の岸辺にはイグアナの群れがうごめき、葉蔭には蝙蝠が飛び交う密林世界が拡がっています。

 隊員たちは長期にわたる滞在のなかで、次第に同じ夢を見るようになります。

大きな太陽が太鼓の音を轟かし、細胞に眠る太古の記憶へ意識を退行させるような夢です。

 北の基地への帰還が3日後に決まったあとで、隊員たちを蝕むこの夢はついにケランズも捉えます。そして既にこの夢の虜となっていたビアトリスと研究員ボドキンと共に3人はこの地に留まることにします。

 

ここまでが前編といった感じで、後半にはリッグス隊は去り、青白い死者のような男、ストラングマンが率いる海賊団(?)がワニの群れを引き連れてやってきて、暴力と狂気に彩られた冒険譚が幕を開けます。

 コンラッドの『闇の奥』を読んだことがある人は通じるものを感じるらしいです。

コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』もコンラッドから着想を得たらしく、私はこちらを連想しました。

 原題は『THE DROWNED (溺れた) WORLD』ですが、水没した都市のことでもあるし、太陽の熱に浮かされた人間の内なる世界のことでもあることがわかってきます。

 

 この物語の冒頭に2つの絵が出てきます。

 

マントルピースの上には、二十世紀初期のシュール派の画家デルヴォーの描いた巨大な油絵がかかっていた。その絵の中では、奇怪な骨のような風景をバックに、蒼白な顔をした女どもが、腰まで肌をあらわにして、タキシードを着てめかし込んだ骸骨と踊っていた。別の壁には、マックス・エルンストがすっかり打ち込んでいた幻影のようなジャングルの絵がかかり、何か狂った無意識世界の淵のように誰の耳にも聞こえぬ絶叫をひとりあげていた。」

 

 実は小説を読んでるつもりで、ずっとこの絵を見ていただけなのでは?と錯覚してしまうくらい、この小説の骨格を成している絵ではないかと思います。

当時シュルレアリスムはあまり真面目に取り上げる価値のないジャンルとして冷遇されていて、バラードが作中に取り入れることも出版元からは反対の声があったそうですが、消されなくて良かったです。

 この絵だけでなく、熱帯が見せる夢を擬似的に再現しようとして(いるのかどうか何をやってるのかよくわからないのですが)電熱棒を太陽に見立て、心臓の鼓動を録音したレコードを聴き比べながら行う”聴覚ロールシャッハ・テスト”のシーンなど、バラードによるシュルレアリスムアートの実験みたいで、面白いです。

 短編の名手であるバラードは、長編小説はあまり成功しなかったなどと評されていますが、特にこの『沈んだ世界』は、冒険小説に、シュルレアリスティックな無意識世界の探究を、無理に一緒にしたようなちょっとバラバラな感じがしなくもなくて、それが独特のバラード節になっていて私は好きです。

 

 と、ここまで長々と書いてきてしまいましたが、個人的にはラストシーンが大好きです。

暗く湿ったイメージをさっと吹きはらうような、物語の果ての風景はぜひ実際に読んでみてほしいです。

まるで本当に太陽の熱に浮かされたバラードが見た白昼夢なんじゃないかと思わせる光景。

真っ白に灼かれた砂丘のどこかで、今も横たわるバラードから直接届けられた夢の便りだと思うとロマンチックじゃないですか。

 

冷たいレモネードと一緒に、どうぞ。