『沈んだ世界』 /J.G.バラード
はじめまして。
栃木県矢板市で古本と新刊の本屋bullockを営んでおります。
ここでは、主にオンラインストアに掲載した書籍の中から店主がピックアップした本について個人的な感想を交えながら紹介していこうと思います。
読んだ感想がメインなので、ネタバレに近くなることもあるかもしれません。
『沈んだ世界』【古書】
東京創元社/2007年24刷/文庫版
¥880-(税込)
1960年代のSF界に「あたらしい波」をもたらした作家のひとりであるJ.G.バラード。
外宇宙ではなく、内宇宙(インナースペース)つまり人間精神の内部空間こそ探求すべき領域であるとし、従来のSFとは異なる作品を書き続けました。
本書は1962年に書かれたバラードの長編2作目にあたります。ちょっとあらすじをご紹介します。
「六、七十年前にその最初の衝撃が現れた。突然発生した太陽の不安定さが原因となって、一連の激しい長期的な太陽のあらしが何年も続き、それがバンアレン帯を拡大させて、電離層の外層に対する地球の索引力を減退させた。(略)気温がじりじりと上がりはじめ、熱せられた大気は、外へ広がって行って、電離層にまで達し、そこで循環が完成した。」
1962年の作品だから、ちょうど今年が小説の中で語られている60年後の世界と重なります。そう思うと現実がSFに追いついてる感じでこわいですね。
長期にわたる気温の上昇によって地球上の地形は大きく変わり、世界中の都市は泥と水の中に沈んだ世界。主人公は年平均気温が85度(華氏。摂氏で29.4度)となった北極圏生まれの生物学者ケランズ。
リッグス大佐率いるイギリスの調査隊の一員として水没した都市を巡り、かつての大都市ロンドンに調査のため滞在しているところから物語がはじまります。
沼から突き出したホテルリッツの、最上階のエアコンと断熱カーテンに守られた一室で仮暮らしをするケランズ。そして、財界人だった祖父が遺したアパート(小さなプールと屋根のある中庭付き)に立退き(というか軍の保護)を拒否して悠然と暮らす美女ビアトリスの存在。
密閉された建物の外では灼熱の太陽が輝き、水没したビルは苔むし、巨大化したシダ類が生い茂り、黒い沼の岸辺にはイグアナの群れがうごめき、葉蔭には蝙蝠が飛び交う密林世界が拡がっています。
隊員たちは長期にわたる滞在のなかで、次第に同じ夢を見るようになります。
大きな太陽が太鼓の音を轟かし、細胞に眠る太古の記憶へ意識を退行させるような夢です。
北の基地への帰還が3日後に決まったあとで、隊員たちを蝕むこの夢はついにケランズも捉えます。そして既にこの夢の虜となっていたビアトリスと研究員ボドキンと共に3人はこの地に留まることにします。
ここまでが前編といった感じで、後半にはリッグス隊は去り、青白い死者のような男、ストラングマンが率いる海賊団(?)がワニの群れを引き連れてやってきて、暴力と狂気に彩られた冒険譚が幕を開けます。
コンラッドの『闇の奥』を読んだことがある人は通じるものを感じるらしいです。
コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』もコンラッドから着想を得たらしく、私はこちらを連想しました。
原題は『THE DROWNED (溺れた) WORLD』ですが、水没した都市のことでもあるし、太陽の熱に浮かされた人間の内なる世界のことでもあることがわかってきます。
この物語の冒頭に2つの絵が出てきます。
「マントルピースの上には、二十世紀初期のシュール派の画家デルヴォーの描いた巨大な油絵がかかっていた。その絵の中では、奇怪な骨のような風景をバックに、蒼白な顔をした女どもが、腰まで肌をあらわにして、タキシードを着てめかし込んだ骸骨と踊っていた。別の壁には、マックス・エルンストがすっかり打ち込んでいた幻影のようなジャングルの絵がかかり、何か狂った無意識世界の淵のように誰の耳にも聞こえぬ絶叫をひとりあげていた。」
実は小説を読んでるつもりで、ずっとこの絵を見ていただけなのでは?と錯覚してしまうくらい、この小説の骨格を成している絵ではないかと思います。
当時シュルレアリスムはあまり真面目に取り上げる価値のないジャンルとして冷遇されていて、バラードが作中に取り入れることも出版元からは反対の声があったそうですが、消されなくて良かったです。
この絵だけでなく、熱帯が見せる夢を擬似的に再現しようとして(いるのかどうか何をやってるのかよくわからないのですが)電熱棒を太陽に見立て、心臓の鼓動を録音したレコードを聴き比べながら行う”聴覚ロールシャッハ・テスト”のシーンなど、バラードによるシュルレアリスムアートの実験みたいで、面白いです。
短編の名手であるバラードは、長編小説はあまり成功しなかったなどと評されていますが、特にこの『沈んだ世界』は、冒険小説に、シュルレアリスティックな無意識世界の探究を、無理に一緒にしたようなちょっとバラバラな感じがしなくもなくて、それが独特のバラード節になっていて私は好きです。
と、ここまで長々と書いてきてしまいましたが、個人的にはラストシーンが大好きです。
暗く湿ったイメージをさっと吹きはらうような、物語の果ての風景はぜひ実際に読んでみてほしいです。
まるで本当に太陽の熱に浮かされたバラードが見た白昼夢なんじゃないかと思わせる光景。
真っ白に灼かれた砂丘のどこかで、今も横たわるバラードから直接届けられた夢の便りだと思うとロマンチックじゃないですか。
冷たいレモネードと一緒に、どうぞ。